オリンピックまでに国旗に親しもう
国旗についてのお話
STORY

天球儀って何だ

冲方丁(うぶかたとう)の原作で、2012年は映画になった「天地明察」(岡田准一主演)。主人公である、囲碁師であり大和暦を考案した安井算哲(後の渋川春海)について、浅学菲才で囲碁に弱く数学に疎い私はこの人を知りませんでした。算哲の時代は映画にも登場する保科正之(松本幸四郎)、水戸光圀(中井貴一)の時代であり、つまりこの人は「鎖国」になってからの人なのです。算哲はまた関孝和(1642~1708)より3歳年長とはいえ、同時代の人です。そんな300年も前に、日食や月食を予言する和算があったとは驚嘆するほかありません。この映画に天球儀が何度か出て来ましたが、ご覧になられましたか?

人類は大昔から天球儀を用いていました。世界最古の天球儀に関してはいろんな説があり、「1279年にペルシャのアルウルダイにより作成されたと推定されているという情報などがあります」と長崎県平戸の(財)松浦史料博物館の学芸員の方から伺いました。

記録に残っている歴史上最も古い天球儀は、BC255年にギリシャのエラトステネスが作ったものだそうです。現存しているものの中では、BC150年ころにローマ帝国で製作されたファルネーゼ・アトラス(ナポリ国立考古学博物館)が最も古いものとされています。彫刻の一部分としての天球儀でした。また中国でも紀元前1世紀の漢の時代から天球儀が作られていました。特に、2世紀の天文学者・張衡は、世界で初めて天球儀に動力を導入した人物として知られているようです。

ギリシャでは大いに発達し、3世紀には既に教育用の道具として使われていました。

天球儀の役割は、①地球の周りの星の動きを説明するため、②天球上の星の配置を決定する最も重要な道具(但し、17世紀に望遠鏡が発明されその地位は下がった)、③ルネサンスー期にはしばしば天球儀を片手に持った科学者の姿が描かれ、知恵と知識の象徴となり、④中世以降、機械や装置の中で最も複雑なものとなり、他の多くの技術の改良を推進し、械や装置のデザインの規範となり、⑤教育用の便利な道具として伝伝えられて世界に普及したのです。

中心に地球を置いたものをプトレマイオス型、中心に太陽があるものはコペルニクス型と呼びます。プトレマイオス型であればそこに自分が立ったつもりで天球儀を仰げば、現実の夜空と同じになるわけです。

天球儀は現在のポルトガルの国旗にも描かれ、近世ポルトガルの絶頂期を築き、インド航路やブラジル航路を拓いた時の国王マヌエル1世(1469~1521)の治世下には国家のシンボルでした。

日本で製作された最古の天球儀は伊勢神宮に収められている1673年製のものだそうです。平戸の博物館にはオランダ人のヘラルト・ファルク、レオナルド・ファルク父子が約300年前に製作し、第9代平戸藩主・松浦静山(まつらせいざん、1760~1841)が入手した、県指定文化財の天球儀と地球儀が1対で展示されています。「北半球おうし座付近の北のはえ座等、現在の88星座が確定する前の星座が描かれているのです」とのことです。


オーギュスト・コント

平戸は1550年にフランシスコ・ザビエルらポルトガル人が初めて来航しましたが、61年に絹の取引から日本人商人と乱闘になり、フェルナン・デ・ソーサ船長以下14人の死傷者を出す「宮ノ前事件」が発生、初来航から15年で貿易の拠点は長崎に移りましたので、この後にできた天球儀は平戸にはありません。しかし、当時の欧州の地図にもFIRADOと記入されているくらいで、平戸は東アジアの交流の拠点だった時代があるのです。

ところで、ブラジル国旗に天球儀をもとに描かれた27個の星はそれぞれブラジルを構成する26州と1連邦直轄区(首都ブラジリア)を表しています。

豊後の三浦梅園(1727~89)は20歳を越えてから中国の天文学の書物を読み、工夫して天球儀を作り、天地の道理を探ろうとしました。「蛮社の獄」追い込まれて自決した、三河田原藩(みかわたはらはん、現・愛知県渥美半島付近)の家老・渡辺崋山(1793~1841)は天球儀にも通じ『天球儀・地球儀の用法、地圖および星圖』を記述しました。東京駅から続く八重洲通りの「日蘭修好350周年記念 ヤン・ヨーステン記念碑」があますが、そこには、2つの羅針盤の輪が天球儀の形に組み合わされているます。この2つは当時世界をリードしていたオランダの航海技術の象徴です。碑にはヤン・ヨーステンと日本に漂着した際、乗り組んでいたとされるオランダ船リーフデ号、そしてオランダの東インド会社のマークが置かれています。

オランダの地図製作者ウィレム・ヨハン・ブラーウが自分の作成した天球儀や地球儀についてオランダ語で解説した手引書(1633年)を長崎通詞・本木良永(もときよしなが、1735~95)が翻訳したものがあります。1774年に4冊のものとして完成しました。これがわが国に地動説を伝えた最も古い文献の一つなかと思われます。