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ネパールは政体も国歌も変わったが

ネパールのこのユニークなデザインの国旗を見てみましょう。1962年、マヘンドラ国王はこの国初の憲法を制定し、政党の禁止、国王に有利な複雑な間接民主主義である「パンチャーヤト制」、ヒンドゥー教の実質国教化などを行い、法体系を確立する第一歩を進めました。国旗はこの憲法で改訂され、その付属書で幾何学的表記法により、正確に規定されました。というのは、それまでの国旗は旗面の太陽と月に顔が描かれており、各資料がてんでばらばらという状況でした。

既に私は組織委で国旗の準備をしていましたので、この憲法制定のおかげでホッとしたというのが実情でした。

72年、ビレンドラ皇太子が国王として即位しました。同皇太子が少年期、耳疾を患い、帝国ホテルに宿泊され東大病院に通院しておられた際、私は日赤のボランティアとして、病院までご案内したり、ご退屈のお相手をしたことがあります。即位後は大変活発で、地方視察の際などスカイダイビングでいきなり学校の校庭などに舞い降りてくるなどもしたようです。

しかし、国王は2001年6月1日、王妃、第二王子らととも王宮内で射殺されました(ネパール王族殺害事件)。詳細も真相もかなりあいまいですが、射殺したのは長男のディペンドラ王太子。王の護衛官らに撃たれ、意識不明のまま即位しましたが、3日後に死去したため、弟のギャネンドラ王子が即位しました。この後、06年5月18日、議会が国歌変更と政教分離(ヒンドゥー教の国教廃止)を満場一致で決定し、翌年12月27日、ネパールの政体が連邦民主共和制になる旨の暫定憲法改正案を承認しました。

しかし、それでも政治の混乱は収まりませんでした。

08年4月10日、制憲議会選挙の投票が実施され、毛沢東派が第1党となったのですが過半数は獲得できず、5月28日、ネパール制憲議会が招集され、新たな政体を連邦民主共和制と宣言して正式に240年間続いた王制に終止符を打ち、これにともないギャネンドラ国王が退位しました。

日本からの観光客は意外に少ないです。

無理もないことです。日本からの観光客がハワイに行くのは、グルメ、ショッピング、ワイキキ・ビーチなどでのレクリエーションのためという人が大部分で、戦史研究などという人は急激に減ってきているからでしょう。また、それ以前に、第2次世界大戦への知識も関心も極端に低くなってきています。

数年前、私はある女子大で、日本とアメリカは戦争をしたことがあるかと96名の受講生に訊いたところ、21名が「ない」と答え、12名が「分からない」と無記名の白紙に書いてきました。また、では「した」という学生に、「その戦争でどっちが勝ったか」と重ねて訊くと19名が「日本が勝った」。さらに、「真珠湾ってどこにある?」「う~ん、三重県です」。

あまりに「貴重なデータ」ですので、私は門外不出でその答案用紙を保管しています。

しかし、この女子大の学生だけを責めてはいけません。先年、「小泉チルドレン」と呼ばれた自民党の国会議員9名と米軍の案内で硫黄島を視察しました。その中の一人がケリー第7艦隊司令官に英語で「ボク、ここに来て初めて知りました。日本と貴国とは戦争をしていたんですね」。私は自分の英語を聴く力が急落したのかと思うほかありませんでした。

「じゃね、広島や長崎に原爆を落としたのは?」と口を挟みました。

「それはアメリカです。だって、日本が中国で悪いことをしたので、中国がアメリカに頼んで懲罰を与えてもらったんでしょう。アメリカもまたせっかく開発した2つの種類の原爆を試してみるのに絶好のチャンスだと思ったから応諾したんですよ」

「あなたはお若いが学校で歴史の勉強をしなかったの?」

「しましたよ。明治34(1901)年でしたっけ、國立八幡製鐵所が出来たというところまで。高校の日本史は厩戸皇子(うまやどのおうじ)のころで1学期が終わりました」

「厩戸王子? ああ、聖徳太子ね」

「そうです。昔は1万円札だったんですよね。ですからその人のことは冠位12階などいろいろ勉強しましたよ。和を以て尊しとする、なあんてね」

女子大生のほうは、そのあと「先生、pearl harborとおっしゃっていただければわかりましたのに」とその巻き舌の発音がまたすばらしかったこと。

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