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アウンサンスーチー最高権力者が国旗を戻すかも

話が少し進みすぎました。第2次世界大戦中の日本とビルマの関係については少し説明が必要かと思います。主役はアウンサン将軍(1915~47)です。今日、ビルマの「建国の父」と崇められ、アウンサンスーチーさんはその長女に当たります。

イギリスの植民地から脱却して独立をと図った将軍は、日本に招かれ、やがて「南機関」(対ビルマ工作に当たっていた特務機関)のトップである鈴木敬司陸軍大佐(予備役少将)を後ろ盾に反英運動を行い、1943年8月にはバモウを首相に、自らは国防大臣となってビルマ国を建国しました。将軍たちにとって残念だったのは、その後の日本軍がインパール作戦の失敗などで敗色濃厚となったことです。そこで、45年5月、アウンサン将軍は「勝利の暁には独立を認める」というイギリス側との約束を決めて、抗日運動に転じ、イギリス軍を中心とする連合軍に加わりました。

しかし、戦後イギリスはその約束を反故にし、アウンサン将軍らの愛国ビルマ軍はイギリス軍が指揮するビルマ軍に取り込まれました。そこで46年1月、アウンサンは政治闘争に力点を置き、反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)を組織し、その総裁としてイギリス政府との交渉に専念することにしました。

アウンサンと鈴木、二人の将軍をめぐる有名なエピソードがあります。イギリス政府は日本に帰還していた鈴木少将をビルマに連行し、BC級戦犯として訴追しようとした時、アウンサンは、「ビルマ独立の恩人を裁判にかけるとは何事か!」と猛反対し、鈴木は釈放されたのでした。また、バモウは間一髪、ビルマを脱出、日本に逃れ、新潟県に潜伏していました。そして、終戦から5カ月たった46年1月にGHQ(連合軍最高司令部)に出頭し、巣鴨の東京拘置所に収監されましたが、イギリス政府は総合的に考慮した結果、その罪を問わず、バモウは同年8月にビルマに戻ることができました。SEAC(東南アジア地域連合軍最高司令官)マウントバッテン卿(1900~79)がアウンサンらの愛国的な活動に理解を示したことが大きかったとみられています。

アウンサンは基本的に反英独立主義者であり、完全独立を目指してさらに活動を続けました。そして47年1月27日、イギリスのC.アトリー首相と、1年以内の完全独立を約束する「アウンサン・アトリー協定」をまとめることが出来ました。

しかし、この年の7月19日、ビルマの独立が完成しないうちに、政敵であり、これまた親日家でもあったウ・ソウ前首相に近いテロリストによる凶弾により、アウンサンは6人の閣僚とともに殺害されてしまいました。享年わずか32。ビルマが独立したのはその半年後、48年1月4日のことでした。

ビルマの歴史の中に日本は大きな関わりを持ったのです。南機関の元メンバーたちは、戦後もさまざまな機会にビルマを訪れ、支援活動を続けました。

そんなことから今の国旗を見るにつけ、そこに日本がうっすらと見えてくるのです。そういえば、日本のパチンコ・ホールで鳴り響いていた行進曲「軍艦」(軍艦マーチ)、今では全国で消えましたが、ミャンマーでは今でも陸軍の曲として公式に演奏されています。

2015年11月8日に実施された総選挙において、アウンサンスーチー党首(ノーベル平和賞受賞者)のNLD(国民民主連盟)が圧倒的な勝利を収め、議会を抑えることができるようになりました。しかし、軍事政権が作った憲法で、亡夫や息子が英国籍であるアウンサンスーチー党首は大統領になれません。そこでNLDはスーチー党首の側近で、同じ高校の1年後輩であるティン・チョウ氏を大統領にしたのです。スーチー党首は国民的支持を背景に「大統領の上に立つ」存在となるのでしょうが、それでも、軍司令官が任命する軍人議席が25㌫を占め、英国人と結婚したスーチーさんは憲法の外国人と婚姻した者は大統領や副大統領に慣れないという規定(第56条)の規定があり、これらのポストに就かず、大統領はビルマ族とモン族の混血であるティン・チョーというスーチーという同じ高校の1年後輩で、スーチーさんの秘書や運転手をし、官僚でもあった人物を建てました。副大統領はヘンリー・ヴァン・チオというチン族の人が、全少数民族の代表のような感じで議会に任命されました。今後の成り行きが注目されているのです。

ただ、これまでの歴史と経過を思うと、NLDは軍事政権が作った今の国旗を早い段階に変更して、新しい国になったことを内外に示すのではないでしょうか。

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