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NZ国旗の変更も注目されたが

2015年末のニュージーランド(NZ)での国旗変更に関する国民投票では5案あった中から、この国が誇るラグビーチーム「オールブラックス」のシンボルにもなっているシルバー・ファーンの葉と南十字星を描いたデザインが選ばれ、16年3月3日から24日までにこれまでの国旗とで決選投票が行われました。国旗変更を推進しているのはキー首相率いる中道右派の国民党政権。首相は投票開始に際し、ラジオ局との会見で、シルバー・ファーンは国家のシンボルと主張。「国旗の変更は国家的な矜持、母国の認識に関係し、世界にNZの偉大さを示す問題」とし、現行の国旗ではそれは実現しないと強調しました。

NZは中道右派の国民党を率いるジョン・キー首相が「オーストラリアと間違われるのは嫌だから」と、国旗の変更を公約にして政権を獲得し、「イギリスの植民地ではないデザインに変えよう」という意見も多かったのです。そこでまず変更案を公募したところ、10,292の案が寄せられ、それが選考委員会による40の案に限定され、、さらに4種類まで絞りこまれたわけですが、どうもパッとせず新たに1案が加わって5案になったのでした。

結局、国旗の変更は国民の支持を得ることができず、56.6%が従来のものを継承すべしとした最終投票結果が出ました(反対は47.17%、投票率67.78%)。イギリスとの強い結びつきを維持したい人が多いこと、こと「この旗の下、命がけで国を守ってきた」という退役軍人の人たちが大勢いること、新しい案が5案出され、票が割れたことなどがこの結果になった原因かと思います。

また、オーストラリアも1990年代後半に労働党が、イギリスからの総督を戴く自治領ではなく、連邦共和国なり、「ユニオン・ジャック」の付いていない国旗にしようと提案し、数千の案がネットをにぎわしました。中には、飯能自動車学校(埼玉県)や安城自動車学校(愛知県)のロゴのようなコアラや西濃運輸のロゴのようなカンガルーを描いたものもありました。しかし、この時も結局、保守党への政権交代で立ち消えになりました。


オーストラリアの国旗

ニュージーランドの国旗

2016年3月3日~24日の国民投票で敗れたNZ国旗の最終候補。

決選投票で敗れた最終候補と「準決勝」で競った4点。2016年3月3日、決戦投票が行われた。建築家のKyle Lockwood氏がデザインした。シルバー・ファーンは夜でも月光で光るので、原住民であるマオイ族の人達が夜道を歩くときにそれを頼りにしたことに由来する。

「オーストラリアの国旗と間違えられることが多い」からと、国旗の変更を公約として掲げたキーNZ首相の思いは、「準決勝」の投票率が半分に満たないこともあり、国民の関心や支持を十分獲得することはできなかったというべきでしょう。

特に、ニュージーランドでは日本の郷友連盟のような在郷軍人会の反対が強かったようです。NZは1907年9月26日、イギリス連邦内の自治領となり、事実上独立しました。第一次世界大戦では志願兵によるオーストラリア・ニュージーランド軍団 (ANZAC)を結成しました。特にしられるようになったのは、ガリポリでの敵前上陸作戦。オスマン・トルコ軍を中心とする枢軸国軍と激戦を展開、敗退したのです。これが、NZの国旗を掲げての最初の本格的な戦いで、世界がNZ軍の勇気と活躍を評価したのでした。それ以来、「わがNZ軍は一度も敗れたことがない」と、国際会議などで胸を張るのです。

こうした経過を経て、31年、英国議会は「ウェストミンスター憲章」でカナダやオーストラリアなどの自治領の独立を正式に認めるに至りました。しかし、むしろ自治領側がロンドンとの関係をどう位置付けるかで微妙な判断に時間がかかり、第二次世界大戦になってしまいました。この時もNZは連合国側に立って対日宣戦もし、参戦したのです。最終的にNZ議会が独立を決断したのは戦後の47年11月でした。在郷軍人たちは、「ガリポリの戦い以来、われわれはこの国旗の下、命を懸けてNZに尽くしてきたのだ」という強い思いがあったと報じられています。


英領インド帝国の旗。トルコのガリポリ上陸作戦では戦死1,358人、戦傷3,421人を出した。

ムガール帝国の国旗。1526~1858年のインド亜大陸におけるイスラム帝国。セポイの反乱で潰えた。

オーストラリアとNZはボーア戦争に義勇兵を送ったことはありましたが、本格的な参戦は初めてでした。戦況は従軍記者によって報道され、両自治領の人々に大きな衝撃を与え、これが独立国家へと進む一因なったとされます。両軍団がガリポリに上陸した4月25日は、オーストラリアでもNZでもアンザック・デーとして今でも国民の祝日となっています。

日本の帝国海軍はこの作戦でオーストラリア軍の海上護衛を引き受けていたのです。逆に自衛隊がイラクのサマワに派遣されていたときには、オーストラリア軍に守ってもらったのは記憶に新しいところです。

<注>ガリポリの戦い
第一次世界大戦中、英国の海軍大臣ウィンストン・チャーチル(後の首相)の提唱で連合軍はダーダネルス海峡西側のガリポリ半島を占領し、オスマン帝国の首都イスタンブルに進撃する上陸作戦が立案された。トルコ軍はムスタファ・ケマル・アタテュルク(後のトルコ共和国の初代大統領)のなどの名指揮もあり、連合軍は予想外の頑強な抵抗に遭い、また、長い塹壕戦のため約140,000人もの連合軍兵士が腸チフスや赤痢で病死するなど、多大な損害を出して撤退、作戦は失敗に終わった。この戦いは近代戦における大規模上陸作戦としては世界初とされる。また連合国軍に参加したオーストラリアとNZにとっては初の本格的な海外遠征となった。この戦いには英自治領からの志願兵からなるANZAC軍団と英第29師団、海軍師団、仏軍部隊が参加した。

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