日本の降伏文書署名式が行われた1945年9月2日、東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリには、ペリー艦隊の旗艦ポーハタン号に掲げられていた31星の「星条旗」が本国の博物館から持ち込まれました。「まるで、アメリカがこの旗を掲げて文明を教えたことを忘れて日本は戦端を開いたとでも言わんかのような威圧感があった」と、このとき重光外相の秘書官としてフロックコートを着て同席した外交官の加瀬俊一氏から伺ったことがあります。
私はこの調印式での国旗の扱い方について、米国人のものの考え方、価値観を見る思いがするのです。いかにもアメリカらしい、独善的ともいうべき「要らぬお説教」の象徴のように思えてしまうのですが…。
まず、独善的な史実を列挙しましょう。
- 戦艦ミズーリの甲板に「星条旗」が2枚掲げられました。1枚は真珠湾攻撃を受けた時、ワシントンのホワイトハウスに掲げられていた48星の「星条旗」です。3日かけて首都から運び込んだそうです。もう1枚は1853年にペリー艦隊の旗艦である蒸気外輪フリゲート艦サスケハナ号が掲げていた31の星を描かれた「星条旗」をメリーランドのアナポリス海軍士官学校博物館から取り寄せ、額装のまま掲げたものです。ダグラス・マッカーサー(1880~1964)の強い要望で届けられたそうです。
- 式場には「日の丸」はもとより、署名する他の連合国の国旗も掲げられませんでした。「この場に堂々と関係国の国旗を全部掲げたとしたら、終戦の日である8月15日暁まで爆撃され、民間人ばかり多数殺害された秋田市出身の私の対米観は、かなり違ったものになっていたでしょうね」とは、親しくなったアメリカ人に何度、伝えて来たことでしょうか。
- 時の大統領ハリー・トルーマンの出身地ミズーリ州と同じ名の戦艦で降伏式典を挙行することにより大統領にゴマをすっているのではないでしょうか。
- マッカーサーはその「ミズーリ」をその92年前、すなわちペリー提督が4隻の軍艦を率いて日本にやってきたときに旗艦「ポーハタン」が停泊したのと緯度・経度がまったく同じ場所に停泊させました。
ちなみにその後、ミズーリは湾岸戦争にまで就役しましたが、退役後は帝国海軍の奇襲を受けて真珠湾に沈没した戦艦アリゾナの隣に錨泊、展示されています。
降伏式典。壁面の「星条旗」は31星になっている。ただ、とても分かりにくいのは写真の右端が縦に6つの星、ほかは5つずつであること。
当時の星の正しい配置は右図黒い服の人から右へ3人目がパーシバル、4番目がウェインライトか。
カリフォルニアの州昇格で1851年から7年間続いた31星の「星条旗」。
ペリーはこれを掲げて来日し、マッカーサーはそれを博物館から引き出して、重光外相らに降伏文書へ署名させた。
降伏式典は予定より2分遅れ、9時2分にマッカーサー元帥がマイクの前に進み演説を始めました。降伏調印式は23分間にわたって世界中にラジオで実況中継放送されました。マッカーサーは5本のペンを取り出して交代で文章に調印し、最初の1本を、ジョナサン・ウェインライト中将に渡しました。同中将は、マッカーサー大将(1944年に元帥に昇任)がフィリピンを脱出してからバターン半島とコレヒドール要塞に立てこもり米比軍を指揮を執ったのち、42年5月、日本軍に降伏、捕虜として満州に移送され、終戦まで収容所で過ごしていました。マッカーサーが特に指名して降伏式に招きました。指揮の3日後に大将に昇任し、戦後も軍務に就きました。
2本目のペンは英国極東軍司令官だったアーサー・パーシバル中将に贈られました。同中将は、訓練不十分な2個師団半のみを指揮し、42年2月にシンガポールが陥落したとき、山下奉(とも)文(ゆき)中将率いる日本軍に13万の残存兵と共に降伏しました。13万人が降伏というのは英国史上最大規模の降伏です。その後は捕虜として、台湾経由、満州で抑留生活を送った人です。
3本目はマッカーサーの母校であるウェストポイント陸軍士官学校、4本目はアナポリス海軍兵学校に贈り、最後の1本は妻ジェーンにとして自らのポケットに入れたのです。このあたりもいかにもアメリカの軍人らしいところです。