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幕末の津山は洋学の中心地

2012年2月8日、岡山県津山市を訪ねました。夜の津山の暗さは東京に狎れた私の眼には寂しいを超え、怖いほどでした。翌朝9時に、洋学資料館の下山純正館長がお待ちくださるということなので、宿舎を出ずに、ホテルの「珈琲」(榕菴が考案した当て字)を口に運びながら、持ち合わせの資料で、榕菴と阮甫について復習して休 みました。

洋学資料館は阮甫の生まれ育った家の隣にありました。往時の街にタイムスリップしたような土塀とお蔵の並ぶ通りに臨んでいます。榕菴が取り組んださまざまな薬草の植栽が見られます。館内には近代科学のさまざまな分野に及ぶ多くの史料、資料、そして研究書が収蔵され、展示されているのです。


津山洋学館の前庭には、玄随、玄真、榕菴の宇田川家3代、そして箕作阮甫、さらに津田真道の胸像が、攻勢を見つめ合うように並んでいる。

ところで、この二人の手になるもののほか、幕末には思いのほか各種の国旗本が刊行され、今日に残っています。当時の美術印刷の技術の高さは言うまでもなく、それに加えて、今から振り返っても、著者や編者の情熱と必至の思いが感じられ、製版や色彩の面で驚くばかりの水準を持っているのです。

さて、ここで少し幕末当時の内外情勢を振り返ってみましょう。

18世紀末、そう、フランス大革命の頃のことです。ヨーロッパではナポレオンが東奔西走している頃、わが国の北辺や西端もにわかに騒々しくなって来ました。すなわち、1792年、ロシアの使節アダム・ラクスマンが根室を訪れ、通商を求めました。まさにフランス革命のさなかでオランダは日本とのことにかまっておれない危急存亡の時代でした。一方、ロシアでは欧州の混乱、とりわけオランダの衰退というこの隙を突き、極東への進出を企図しました。

アダム・ラクスマンは、その対日アプローチの先陣を務めた人でした。ラクスマンはイルクーツク滞在中に、たまたま伊勢出身の船頭・大黒屋光太夫ら漂流者6人と出会い、光太夫を連れてペテルブルクの女帝エカチェリーナ2世の拝謁を受けたことで知られています。このあと、ラクスマンは女帝の命により光太夫、小市、磯吉の3名を伴い、シベリア総督の通商を希望する信書を携えて92年9月、根室に到着したのです。

しかし、老中首座で11代将軍・家斉の補佐役であった松平定信(1759~1829)は、「寛政の改革」で教科書にも登場する人物ですが、就任当初から大田南畝により「白河の清きに魚の棲みかねて もとの濁りの田沼こひしき」などと揶揄されるほど、少なくとも表面的には諸事に厳格な人でした。ただ、その一方で、ラクスマンには、箱館で漂流民を受け取ること、信書は受理せず、もしどうしても通商を望むならば長崎にて協議すること伝えさせました。

この結果、ラクスマンらは93年6月、箱館に上陸し、松前で光太夫と磯吉の二人を日本側に引き渡し、長崎への入港を許可する信牌を受け取りましたが、なぜか長崎へは向かわずオホーツクに向けて日本を去ったのでした。

2012年2月23日の朝日新聞夕刊で日本史研究家・河合敦文教大学付属中高校教諭は、1786年、田沼意(おきつぐ)次が失脚した後、老中首座の地位に就いた定信について、<驚くべきことに>とした上で、<だからもし、ラクスマンが長崎に入港して交易を望んでいたなら、ペリー来航より半世紀以上も前に、我が国は開国していた可能性が高い>と見ておられます。記事を見た時、「目から鱗」の思いでした。

そして、<それにしても、定信はなぜロシアに通商を認めようとしたのだろう。一番の理由は、蝦夷地でラクスマンとの交渉が決裂し、彼が直接船で江戸湾に乗り込んでくることを恐れたのである。そうなったら、江戸湾の海防が手薄であることがロシアにばれてしまう。万が一、ラクスマンが裸同然の江戸湾を見てしまったら、ロシアが侵略の食指を動かしかねない。そこで、苦肉の策として長崎入りを認めたのだ>と解説しておられます。

<ラクスマンが去った後、定信は海防掛を設けて自らを任じ、相模の沿岸や伊豆半島をめぐり、本格的に江戸湾の海防政策に乗り出>したのでした。しかし、93年老中を辞すこととなり、海防策は徹底できなかったのですが、他の老中たちが多くの面でこれを引き継ぎ、定信辞任の2ヵ月後の9月、鎖国の禁を破った形である光太夫が江戸城で将軍家斉に謁見し、また、蘭学者たちが95年の西暦元旦から「オランダ正月」を開始し、これには大黒屋光太夫も出席するということもありました。むしろ定信は厳格な治世とともに、国際的な情勢の動きをある程度捉えて対応し、蘭学隆盛のきっかけを作ったということもできるでしょう。

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