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ラトビアは唯一チョコレート色の国旗

両陛下は2007年5月25日にはバルト3国の2番目の訪問国ラトビアの首都リガにご到着されました。

ラトビアは「百万本のバラ」の歌の発祥地です。1981年に当時ソ連の構成国だったラトビアの放送局が主催した歌謡コンテストで、アイヤ・ククレとリーガ・クレイツベルガ のデュエットがこの曲を歌い、優勝したのが大人気を呼んだ始まりです。原曲は、『Dāvāja Māriņa(マーラは与えた)』というラトビア語の歌。作曲はライモンズ・パウルス、作詞はレオンス・ブリエディス、これがロシア語で「ミリウオン・ロース」と訳されてモスクワでも大流行になりました。私も何度かロシアの酒場やレストランでいっしょに


ラトビアの国旗

       

歌ったことがあります。ソ連の歌手アーラ・プガチョワの持ち歌として知られ、日本では加藤登紀子の日本語版が大ヒットしました。ラトビア語による本来の歌詞は、ロシア語版やその内容を翻訳した形の日本語版とはまったく異なり、大国にその運命を翻弄されてきたラトビアの苦難を暗示するものなのですが。

ラトビアでの両陛下は、公式な歓迎行事などの後、ビケフレイベルガ大統領らと「自由の記念碑」を訪ねて献花されました。その時の皇后陛下はラトビアの国旗の色である白い帽子に海老茶のリボンをつけられ、迎えた大統領夫人はその逆の配色の帽子を被っておられました。

この記念碑は1935年に独立を記念して市民の寄付で建てた高さ50メートルの塔ですが、民族主義を抑えるため、旧ソ連時代にはこの周辺に人々が集まることや記念碑に献花が禁じられていたのです。両陛下は集まった千人を超す市民に拍手で迎えられ、大統領と共に記念碑に献花し、市民たちからも声をかけられました。

この後、大統領主催の昼食会で、天皇陛下は先の大戦で多くの人命が失われた歴史を振り返り、「ラトビアの人々が、その後の苦しい時代を通じ、勇気と誇りをもって困難に立ち向かってきた歴史を忘れてはならないと思います」とスピーチし、杯をあげられました。

また、両陛下はナチス・ドイツやソ連による占領時代をテーマとした「占領博物館」を視察され、ナチス・ドイツ占領時代の写真コーナーの展示やラトビアの人々が経験したシベリア流刑の強制収容所の再現コーナーなどを見てまわられました。

この後、ラトビア大学を訪ね、アジア学科の日本学コースの学生らと懇談、天皇陛下は「日本語を勉強し、日本とラトビアとの理解と友好関係が増進されるよう祈っています」と挨拶されました。

ラトビアの国旗は13世紀末の戦争について記述した「リヴォニア年代記」に登場するという古いものです。それは瀕死の重傷となったある兵士が白い布にくるまれた際、布の両端が血に染まったという故事で、それによってこの旗印ができたというのです。

この話はオーストリアの国旗の由来によく似ています。十字軍時代の1192年に第3次十字軍を率いたオーストリアのレオポルド・ヘンデンサム公が力戦の末、敵の返り血を浴び、白い陣羽織がベルトの部分をのぞいて真っ赤になったという言い伝えが、かの国の現在の国旗である赤白赤の横三色旗の由来なのです。

ラトビアの国旗はロシア革命のさなか、1917年5月にデザインされ、21年に議会で承認されたものです。

海老茶色は「ラトビアン・レッド」とも言われる独特な色で、茶色と紫色の混ざったような海老茶色です。海老茶色は、その昔、女子学生の袴の色だったり、鉄道のブドウ色の車両だったりと懐かしいものがあります。だいたいマンセル値8R 3/4.5でラトビアの国旗のいろよりやや 暗く、マンセル値4.2R 4.3/10.7の早稲田大学のスクールカラーのほうがラトビアの国旗の色には近いようです。このスクールカラーは早大野球部のコーチだったメリーフィールドの母校であるシカゴ大学のスクールカラーであるマルーン色からとったもので臙脂(えんじ)色とされています。なお、ラトビアの国旗の色は厳格には決められていません。私は出版社には「M80+Y60+BL50でお願いします」と指定しています。

似た色の国旗にカタールがあります。こちらは「Ⅽ50+Ⅿ100+Y80」と指示しています(詳しくは拙著『世界の国旗ビジュアル大事典』)。

バレンタインデーの色、茶色、焦げた赤、茶系の紫、小豆色、葡萄(ぶどう)色、海老茶、臙脂(えんじ)色、ワインレッド、さらには鉄道車両の阪急マルーン、JRの赤7号…など似たような色があります。いずれにしてもラトビアとカタール国旗のの色は難しいのです。

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