1991年9月7日、朝日新聞「天声人語」は次の一文を掲載しました。。今は懐かしい名文家・白井健策さんの執筆によるものです。ソ連崩壊の3カ月余前のことです。バルト3国はソ連からいち早く抜け、そろって国連加盟国となりました私が所有している『萬國旗 附軍艦旗・商船旗』(以下、『萬國旗』)で戦前には当然、バルト3国が独立国として扱われていることが、この本で解ります。
吉川晴帆『萬國旗』の中の希臘(ギリシャ)国旗の説明部分
国旗に関する著作も多い吹浦忠正さんに教えられ『萬國旗』という本をひもといた。1983年(昭和13年)発行、定価「金8圓」。著者は吉川晴帆という人である。目的は、むろんバルト3国の国旗を見るためだ▼「バルト3国が独立していた戦前の日本で刊行された、世界的水準の国旗の本です」と吹浦さんが言う。厚さ4センチほどの本の「欧羅巴洲」の部に、3国がもちろん別々に載っている▼まず「リスアニア」。「共和國」とある。横3色旗で、色は上から黄、緑、赤。「古来、緑野に銀の甲冑の騎士を描いた……緑野を青色に、銀色の騎士を白色に見立て」たと旧国旗の説明もある▼次に「ラトヴィア」。やはり「共和國」だ。濃いアズキ色の地を上下に分ける形で白い線が中央横位置に走っている。そして「エストニア」。この「共和国の国旗も横3色旗で、色は上から青、黒、白である▼バルト海に沿って、南の国が暖かい色で、北の方が寒色ということになる。第1次大戦のあと、3国とも独立を達成したが、『萬國旗』発刊の翌年、つまり1939年に歴史が変わる▼ナチス・ドイツとソ連とが結んだ不可侵条約の付属秘密議定書に、エストニア、ラトビアのソ連併合、リトアニアのドイツ併合(のちにソ連が併合)などが盛り込まれていたのだ▼色鮮やかな3国の国旗は、すでに今年の春、モスクワでのエリツィン支持派の集会で人々の手に握られ、振られていた。ふたたび、3国の全土で、歓呼の声とともに振られ、ひるがえることだろう▼あらためて『萬國旗』のページを繰ってみる。巻頭はむろん「日本國」。「帝國」とある。次が「満洲國」。これも「帝國」。その国旗は、大地を表す黄色の地の左上に、南東西北を表す赤青白黒の4色をあしらったものだった▼消えた国旗。よみがえる国旗。時代の変転を示す、しるしだ。
エストニアが独立を回復してから3年、1994年8月末、ロシア軍はエストニアから完全撤退し、この国は舵を大きく西側に切りました。2004年3月にはNATOの一員となり、5月にはEUに加盟し、まさに西側の一員になりました。ロシア人が多く居住する東部国境がわずかに未画定ですが、ロシアとは紛争状態ではありません。
この年5月、ロシアが開催した対独戦勝60周年記念式典にはエストニアのリュイテリ大統領とリトアニアのアダムクス大統領は出席を拒否しました。日本からは小泉首相が出席しましたが、私はユーラシア21研究所の仲間たちとともに反対し、ほかの専門家や外務省OB、各紙の社説もこれを批判しました。領土問題が未解決で、平和条約さえ締結に至っていない日本が、直接関わっていない独ソ戦の戦勝を祝うべき話ではないからです。
他方、アメリカのブッシュ大統領はモスクワでの式典に参列する直前の5月7日、ラトビアの首都リガで、「対独戦勝利後にソ連が東欧を支配したことは歴史上の不正行為だった」とし、「ロシアが見習うべき民主主義の模範である」としてバルト3国の名を挙げました。これに対して、ロシアのプーチン大統領は、米CBS放送インタビュー番組で、ソ連によるバルト3国の支配について、謝罪することを拒否しました。さらに、ロシアの民主主義に対するアメリカの批判に、「民主主義にはいろいろな形がある。他の場所に輸出することはできない」と退けました。
このように、バルト3国をめぐる米露関係は常に微妙で、時には摩擦を含みがちです。07年4月27日、タリンで、ロシア系の若者たちの政治グループ「青銅の夜」による暴動が起こたり、ロシアからの激しいサイバー攻撃が行われて、エストニアの通信機能が大混乱するという事件も起こり、両国関係は険悪になりました。