エストニアは2012年初場所で優勝した大関・把瑠都の出身国として日本でも多少、知られるようになりましたが、ラトビアは首都のリガと神戸とが姉妹都市であるほか、日本との関係はまだあまり進んでいません。
バルト3国の中で、ラトビアの特徴は、国内に住むロシア人の割合が4割を超え、特に首都ではラトビア人の数とほぼ拮抗しているという難しさです。ラトビア語が公用語ですが、特に都市部や中高年層ではロシア語を日常語としている国民の比率は高いです。国全体ではラトビア語を常用している人は6割弱、ロシア語は4割弱、その他若干となっています。「ラトビア人の71%がロシア語を話すことができ、ロシア人の52%がラトビア語を話すことができる」という統計もあります。 これは、ラトビアの国籍取得のためにはラトビア語の習得が義務付けられているため、ロシア系住民や他の少数民族の人たちの間にもラトビア語を話す人が増えたことによるものです。映画館やテレビ番組では2つの言語による字幕が示されています。
旧東欧圏の多くや東ベルリンにもソ連を称える巨大な記念碑や威圧的な建造物が残っています。各国はロシアを刺激して対露関係を損なわないようとする配慮で、いずれは解体されるのでしょうが、今はほとんど無視して政治問題化しないようにしています。
エストニアは特に、通信・IT部門の発展が目覚ましく、映像を見ながら世界中と超格安で話せる電話Skypeはこの国に本部があります。
総人口130万余、エストニアの首都タリンは36万人というタリンでは5年に一度、夏に、3万余の人による大合唱祭が屋外で行われることで有名です。この祭典はユネスコの無形文化遺産にも指定されていまスエストニアでは合唱を通じてナショナリズムが昂揚し、独立運動が高まっていった歴史があります。
2007年5月24日、旧ソ連圏を初めて訪問した天皇皇后両陛下は首都タリンでこの大合唱「歌の祭典」が催される野外音楽会場に案内され、小学生から大学生まで約3,700人による特別の歓迎合唱で迎えられました。歌い手たちは民俗衣裳に身を包み、日本の「さくら」も含む5曲を熱唱、両陛下は盛んに拍手を送っていました。<会場には両陛下を一目見ようと約4千人の観衆が訪れた。20代の女性は「近くで見ることができ、わくわくした。とても幸せ」と喜んでいた>。
<また、エストニアの一般紙「ポスティメース」は24日付朝刊の1面に日本語で「エストニアへ ようこそ」と日本語で見出しを付け、両陛下の訪問を紹介する記事を掲載>しました。以上、< >内は、ご訪問の翌25日付毎日新聞の記事によるものです。
当時のテレビ画像で拝見すると、両陛下はタリンの空港に到着時には天皇陛下が黒を思わせるダークグレイのダブルのスーツに白いシャツ、そして青みがかったタイで、また皇后陛下は黒いスーツでタラップを降りられました。まさにこの国の人たちが「暗黒時代」と呼んでいるソ連に併合されていた時代の苦しみへのお気持ちを示されていたのだと思います。さらに皇后陛下は大統領との公式会見1場で、白い帽子の正面に青い大きなリボン、そして白いスーツに黒いスカートというエストニアの国旗の色の配色によるお姿でした。
皇后陛下はこのあとのラトビア、リトアニアへのご訪問でも、コサージュやリボンなどでその国の国旗の色を取り入れるよう工夫されているのがよく分かりました。おそらくは皇后陛下ご自身のお心遣いかと愚考します。
私はタリンはソ連時代にしか訪問したことがありません。しかし、その典雅で繊細な街並みと国を挙げての合唱文化にすっかり魅了されました。今、エストニアは輝かしい21世紀を迎えています。エストニアをはじめ、バルト3国独自の繊細な文化がロシアの大国主義とはとても同調できないことは、ソ連時代から、この国を知る誰でも感じていたことではなかったでしょうか。