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攘夷論渦巻く中での外国旗研究が水戸藩で

茨城県立歴史館の石井裕学芸員にご指導いただいた内容をもとにして鱸重時(奉卿)に焦点を合わせて、ペリー来航当時の国旗研究について、述べてみたいと思います。

重時は天保14(1843)年、28歳くらいでしょうか、「弘道館勤」となりました。同じ年、後に「日の丸」制定に関わる阿部正弘(1819~57)が若くして老中の座に就いています。嘉永元(1848)年には「蘭学方勤」を命ぜられています。天保3(1832)年に水戸藩は海防掛を設置していますが、重時は,9代藩主・徳川斉昭の命により江戸史館で蘭学者青地林宗と「シーボルト事件」に連座したが脱走して水戸藩に仕えた幡崎(はたざき)鼎(かなえ)の指導を受けており,後には水戸藩有数の蘭学者とみられるようになりました。このあと、重時は,蘭書の翻訳に従事しながら,嘉永5(1852)年に斉昭の命で地球儀を作製して幕府と朝廷に献上しています。同6年11月13日には「大船製造懸」を命ぜられ,日本初の西洋式軍艦「旭日丸」(帆船)の建造を指揮しています。

父・重遠は水戸藩側医師(本科(内科)兼外科医)25人扶持の上級藩士,子・重時は「小十人列」(嘉永元年)、「御次番」(同五年)であすから,中級藩士というべきでしょう。

周知の通り、ペリーが来航したのは53年と54年、その年には松居信(南岱)が『萬國舶旗圖(はくきず)譜(ふ)』を刊行しています。


スウェーデンの国旗について(左)、右はデンマークの国旗についての紹介

『萬國簱鍳(ばんこくきかん)』の奥付

『水戸市史』中巻三,鈴木暎一『徳川光圀』などによれば、斉昭の国旗研究に関してはよく分りませんが、ただ、水戸藩では2代藩主・光圀(みつくに)の時代から彰考館で蘭書を収集・翻訳しており,長久保赤水、本間玄調など多数の優れた蘭学者を輩出しています。

水戸藩では,文化4(1807)年の鹿島沖での異国船出没を初めとして,特に文政7(1810)年の大津浜事件(英国捕鯨船の上陸)を契機に海防意識が高まり,同12(1815)年に斉昭が藩主になると洋学研究が本格化しました。

08年の長崎における「フェートン号事件」など異国船の出没、アヘン戦争等の情報,欧米列強への警戒、海防の充実といった時代背景のなかで,石井学芸員は「特に航行船に関する国際法の知識等の必要性から重時の『萬國旗章圖譜』が著されたのではないかと考えられます。また,「<中黒>を主張する幕府に対し,海防掛でもあった斉昭が日の丸を日本の総に船印にすべきだ主張し、安政元年7月に幕府によって認められたという経緯もあるので、斉昭が国旗に関心を払っていたことは確かです」と石井学芸員は続けます。

このあたりのことは水戸藩研究の基本文献である『水戸藩史料』、『烈公行実』をはじめ、『茨城県史』近世編、『水戸市史』中巻三~五、『幕末日本と徳川斉昭』(歴史館図録),沼尻源一郎編『水戸の洋学』,鈴木暎一『水戸藩学問・教育史の研究』などに詳しいようです。

内憂外患、激動する内外情勢下にあって、水戸藩はもとより幕府や各藩が真剣に国旗の研究をしていたと言うことは、同好の士たる私にとって、身が引き締まる思いです。

個人的には、1964年の東京オリンピックの2、3年前を思い出します。当時の日本にはどこに行っても国旗の資料等ほとんどなく、この、所詮は秋田の田舎から(ポッとか、ボーッとしてかは知りませんが)出て来たばかりの一学生にすぎない私に、「しっかり頼む」と肩をたたきつつ、与謝野 秀(すぐる)(馨元衆院議員のご尊父=鉄幹・晶子の次男、元イタリア大使)事務総長が、今の迎賓館(旧赤坂離宮)に置かれた組織委で「国旗担当専門職員」の辞令を渡されたのです。

あの時の緊張と重圧は今でも忘れることが出来ません。ですから、幕末の宇田川榕菴や箕作阮甫のように幕府の下級官僚として外務事務に携わっていた人たちはもちろん、この水戸藩士・鱸重時のように、シーボルト事件(1828)や蛮社の獄(1839)など内憂外患の続く中、その何倍もの思いで、文字通り命がけで「Xデイ」のための準備をしていたのでしょう。

実は、2001年9月、同時多発テロで停止していた日米間の航空路が再開された最初の便で私は訪米し、ハーバード大学のWhitney Smith教授を訪ねました。世界的な旗研究の権威であり、南米ガイアナの国旗をデザインしたことでも知られる人です。そこで、同教授の主宰するFlag Reserch Centerで10数冊の和綴じの書籍の鑑定をしてあげたことがあります。かねてある程度の情報はありましたが、我が国ではペリー来航以前から、世界の国旗を研究し、成果を上梓している人が数人いるのです。既述のように、松浦静山、宇田川榕菴、箕作阮甫(みつくりげんぽ)、鱸奉卿(すずきほうきょう)…といった先人です。

情報はもちろん出島を経由してオランダから持ち込まれたものです。どの本にも日本の国旗は出ていませんが、浮世絵、錦絵、木版画などの技術が高度に発達していたこともあり、見事なカラー印刷です。書籍状のものもあれば、懐中に忍ばせて来航船を識別したと思われる鱸によるポケット版の『萬國簱鍳(ばんこくきかん)』も伝わっています。

それらをかの地でズラリ並べられた私は正直、圧倒される思いでした。海外との窓がほとんどとじられていた当時にあって、各国の国旗はもとより市や港の旗まで300もが紹介されているものまであります。

帰国後、古書専門店に依頼するなどして、4つほど入手することができました。1冊60~70万円というのは「清水の舞台から」の気持ちでしたが、自動車を30万㌔ほど買い替えず頑張りましたら、今は亡き親友・高野國夫くんが理解してくれ、応援してくれたのです。今では時折、手に取ったり、国旗の講演の時にみなさまにご覧いただいたりしています。いずれしかるべきところに寄贈し、広く活用していただきたいと思っています。

私が生まれる100年も前のこうした先学のご尽力にあらためて敬意を表しつつ、まずは榕菴や阮甫の津山藩の故地に向かいました。

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